沖縄海洋博覧会主催「1975年ハワイー沖縄太平洋横断ヨット・レース」
に参加して (後編・・・スタート前からゴールまで)
1975年(昭和50年)10月5日~11月8日間の航海日誌より
(2005年(平成17年)7月 補稿)
「ラプソデー・ビバーチェ号」 艇長 蔭山陽三
1. スタートまで
1975年(昭和50年)10月5日 我々レース参加メンバーが乗ったジャンボジェット機は前夜に
羽田空港を離陸してから6時間余り、太平洋を飛び続けその機首をハワイ諸島の西の方から徐々に
高度を下げつつホノルルに着陸する姿勢に入った。
海図で知っているニイハウ島が先ず目に入る。此処は昭和16年12月8日、太平洋戦争開戦の日
真珠湾奇襲攻撃の時に被弾した日本の戦闘機の1機が不時着し、同島に住んでいた若い日本人
夫婦に救助された後、原住民に奪われた暗号表を取り返すべくその夫と2人で切り込み力尽きて
2人共自害した島であることをTVのドキュメンタリー番組で見て知っていた島だ。
時は流れても同じ民族の1人として何故か熱いものがこみ上げて来るのを覚える。小さな島の周りは
陽光の下一面の白馬(海用語で強い風で波頭が砕けて白い馬の群れが疾走している様な海原の
状態)だ。これから沖縄まで8.000キロ、こんな荒い海を走るのかと思うと身が引き締まると共に
口が閉まる。
ホノルル空港の出迎えは、先発隊のO副艇長と日系2世のS氏と強烈な香りのレイである。
2ヶ月ぶりの再会、硬く手を握り合う。早速S氏の大きな車でドックに上架中の愛艇と先発隊の
メンバーに会いに行く。青い空と白い雲の下、椰子の葉揺れる人気の無い広いドックの船台に
愛艇が目に飛び込んでくる。丁度食事を作っている何人かと久し振りの対面であるのに、何となく
ぎこちない何か違和感を直感する。回航とハワイ滞在の長い間に回航メンバーの間に気まずい
ものが在るのか、ハワイぼけしてしまったのか、回航前のあのチームワークはどうなってしまった
のか、と次々と仮定の想像が頭の中を飛び交う。案の定先発隊の何人かから個別に話が入る。
それぞれの胸の内を繋げることが出来るのは、それぞれの話を聞いた自分1人であることを
自覚する。寄り合い世帯のせいも在るが、先発隊の現状のチームワークは悪化している。
観光地ホノルルでの自由な留守番の毎日が、お互いを
離れさせつつあることに気付く。会社でも同じこと、目標を無くした指導力の無いもとでの人間
集団は、幾ら各人が優秀であっても、もはや力のある集団ではない。
よい時に来た。今日からは初心に帰って皆の唯一の目的“太平洋を無事にヨットで乗り切り、
レースに勝つこと”に向かおう!リーダーシップが1番急を要することである。その為に自分は
最善を尽くそうと心に誓う。 その夜は再結団式も兼ね、ホノルルの日本料理屋で2世のS氏も
お招きして盛大に宴会を開く。カナダ産の松茸がどんどん出てくる。「明日からは毎朝7時にヨットで
ミーティングをしよう。」と告げ、その後は先発隊、後発隊共々最後の自由行動の夜とする。
翌日の朝6時、午前3時ごろまでダウンタウンを飲み明かし、時差ボケもある中殆ど眠れ
なかったが、昨日から合宿用に借りたコンドミニアム組(メンバーを2組に分け隔日にこの
コンドミニアムと、名門のワイキキ・ヨットクラブのハーバーに係留しているラプソデー・
ビバーチェ号に分宿)を起こして、ドックまでの約30分の道を全員駆け足で急ぐ。
南の島の早朝は珍しい小鳥がさえずり、花が溢れて素晴らしく爽やかだ。予告の8時の
最初のミーティングは、1人の遅刻者以外顔が揃う。今日から又艇長の言葉として次の3つの
ことを伝える。
1. ハワイの留守番は終わった。
2. ハワイぼけを覚ますこと。
(1)
3. プライベイトなことは2の次にし、公事を第1にすること。
総員その日は上架中の艇の船底掃除とペンキ塗りに夕方まで汗を流す。
その夜は我々大型艇にとっては今回のレースで唯一のライバル、世界的なレーサーで
あるアメリカの64フート「SORCERY号」のホームパーテーに日本からの5隻の出場艇が
招かれ、ダイヤモンド・ヘッドの近くの高級住宅街に繰り出す。魅力的なホステスも多く
底抜けに明るく楽しいフリーなパーテーとなる。こと家庭となると閉鎖的な日本人とは
正反対な開放的なアメリカ人の社会が其処には溢れていた。
翌日の夕方ドック出ししたラプソデー・ビバーチェ号は、名門のハイ・ソサイティ・クラブ
「ワイキキ・ヨットクラブ」の真ん中のバースに係船する。3日目からは朝6時起き、コンド
ミニアム組は「ワイキキY・C」まで気持ちの良い朝の空気を感じながらランニングで乗艇し、
朝のミーチィングの後、先ずはパールハーバーの沖まで帆走してから、ダイヤモンド・ヘッド
沖までスピン・ランを主に練習を日没まで繰り返し励む。勿論レース中の落水事故を
想定して、追手のスピン・ラン中にダンボールの空箱を落水者に見立てて海に落とし、
スピンを下ろし取り込んで代わりのジブを上げて風上に反転して救助に向かう練習も繰り
返す。最初18分掛かったこの作業も、終わり
には8分程度に短縮出来た。しかし10ノット近くのスピードで帆走しているヨットでは、
8分間の距離は約2.400メーターも離れることになり1度も海に投げ込んだダンボールを
見付けることは出来なかった。これで落水した時の救助は殆ど絶望的であることを、
ましてや夜間では絶対に見つけられないと皆で改めて確認し合う。
次の4日目からは午前は先発回航組がお世話になった在ホノルルの日系2世 3世や、
白人の皆さんをヨットにご招待し、ワイキキの沖を毎日休むことの無く吹いてくれる貿易風を
セール一杯に受けて、豪快な帆走を楽しんでいただくことに当てる。乗り組みメンバーが
用意した食べ物、飲み物の他に招待者が持参された色々な美味しい食べ物を
囲んで楽しいランチ・パーテーがデッキの上で花開く。
夜は夜で日系の人々の招待を整理するのに大変なぐらいお誘いを受ける。素晴らしい
ハワイアン・ホスピタリティー!やっと皆で苦労して此処まで来た甲斐があったような気に
なって来る。
それにしても日系2世、3世のこの底抜けの親切は何から来るのだろうか、苦しかった
かつての移民入植時代の思いと、それに打ち勝った今の自信を同じ血を引く私達に見て
ほしいと思っておられるのか・・・、
これは多分冒頭に記載した太平洋戦争開戦の日に、ホノルル奇襲攻撃の戦闘機乗りを
匿い共に切り込んだ、若いハワイ在留夫婦の様に同じ民族の血がなせるのか、それとも
当時の神国日本の教育のせいなのか・・・
しかしこれも3世の時代になれば終わってしまうのだろうか、1975年の時点で後5年、
1980年頃までかな~と、ふと心をよぎる。
毎日 風速10メーター以上の強い貿易風の下「ワイキキ・ヨットクラブ」→「パール
ハーバー」 →「ダイヤモンド・ヘッド」→「パールハーバー」→「ダイヤモンド・ヘッド」の
コースの繰り返しの練習をバテル程行う。やっと締まって来た感じを、皆で共有する。
当然なことだが、各人は優れたたヨットマン、これならやれる!とハイな気持ちに
なって来る。
いよいよ明日は8.000キロの長丁場の始まりと言う最後の前夜祭が、日本からも
海洋博関係者、NORC(日本外洋帆走教会)の大儀見さん等が名門「ワイキキ・ヨット
クラブ」に集いレース出場の全艇のメンバーが参加して「アロハ・パーテー」が盛大に
開催される!
ドレスアップしたレディとGO-GOを踊る者、バーでカクテルを楽しむ者、ホノルルでの
別れを惜しむ者、私達ラプソデー・ビバーチェ号のメンバーは日本から駆けつけた
応援団も交え、予てより準備してきた揃いの衣装で“阿波踊り”を、軽かなお囃子の
リズムに乗って周りの観客も一緒に巻き込みながら披露して大喝采を受ける。
これがレース前夜祭のクライマックスだ。賑やかな阿波踊りを踊りながらこれまでの
出来事が次々と心をよぎる。何度?大きな壁にぶち当たったことだろうか、しかし
1度として諦めなかったので此処まで来られたと1人想う。明日からの本番レースにも
負けないぞ!と心に誓いながら時の過ぎるのを忘れ深夜まで踊り、飲み歌う。
(2)
2. スタート
1975年(昭和50年)10月12日(日曜日)スタートの朝が来る。
昨夜の深酒にもめげずみんな定刻より早く集まって来る。ワイキキ・ヨットクラブでの最後の
ミーティングを簡単に行う。ハワイで知り合った人々、日本からわざわざ駆けつけたくれた
応援団の面々が、色々な物を持って見送りに来ていただく。ホノルルに着いた時と同じ様に
強烈な香りのレイを掛けて貰い、ホノルル滞在組は勿論、それぞれに別れを惜しむ。
いよいよ舫い綱を解いて沖に向かう。見送りの人々や、クラブのヨットから大きな声が
掛かる。何か戦場に向かう感じで舵輪を握る。エンジンを前進一杯に入れ通い馴れた
アラモアナの水路をレース海面に向かう。
見送りのモーターボートやヨットが次々に伴走して来る。風は何時もの東北東の貿易風、
これからが8.000キロの始まりだと、自分に言い聞かす。
早くも目の前を「SORCERY号」が行く。強い貿易風をセール一杯に受け、我が「ラプソデー・
ビバーチェ号」が猛然と走り出す。一旦東に向かいダイヤモンド・ヘッドの沖に在る灯浮標を
廻ってスタートし一路進路を西に向ける。スタートの号砲が鳴る。先頭「SORCERY号」、
2番手にラプソデー・ビバーチェ号が続く。何としても「SORCERY号」には勝たねば!と全員の
心が躍る。
3.航海日誌より
・ 10月13日(月)第2日目。(北緯20・47分、西経160・22分)・・・ワッチ(当直)と雷の恐怖・・・
スタート直後ダイヤモンド・ヘッドに向けてレイにキッスしてアロハ!と共に海に捧げる。スタート
後は出だしでもあり暫くは全員ワッチで意気込む。夜になる前にワッチ(当直)を2組5名ずつ
4時間と決める。
艇長と副艇長はオフ・ワッチとし、当直の交代前後や天測時、加勢を必要とする時には時間に
関係なくワッチに加わることになる。風もそう強くない追っ手、スピン・ネカー(追い風の時に
使う袋帆)で順調な出だし。そんな中今日の夕方何処かの港に着く様な錯覚に落ちる。こんな
状態がこれから未だ20日以上も毎日続くと言うことを銘記して置こうと、自分に言い聞かせる。
ワッチでは4時間毎に起きて、当直交代前に前のワッチ組が作った1菜1飯の食事を揺れながら
かけ込み、交代時間の0時、4時、8時、12時、16時、20時に寝起きの悪い人も関係なく正確に
交代をする。水は艇長管理とし毎食事時にコップに定量を正確に測り配給する。それにサンキスト・
オレンジは1人1個をワッチ毎に配給する。食事の味や内容に付いては、作った人のご苦労に
感謝を込めて一切不平や批判をしないことも申し合わせる。こんな小さなことも狭い艇内で、
若者から壮年までの大人12名が長期期間共にする生活の不満の種になるとことも在ると思い
徹底する。
ワッチ中のデッキでは舵とシート(セールを加減するロープ)をCM単位で操作し、常に1CMでも
艇が速く走るように神経を集中してウインチ(ロープを巻く為の)をこまめに使う。風の強さと
方向により何時でも最上のセールにオールハンズ・オンデッキ(当直に関係なく非番の組みも
起きて当直組と一緒になってデッキに出て作業をすること)で張替える。ちなみにスピンネーカーの
セールの1枚の大きさは、高さ16M、底辺11M、面積150㎡(3LDKのマンション2戸分)の
巨大な袋帆である。それを風速10M/秒を越す風の中張り替える作業は、12名全員が
取り掛かってもまだ人の手が欲しいぐらいになる。レースに勝つ為のこの忙しさと神経の集中と
体力の消耗が、他の雑念を起させない薬となる。
空は白い雲が飛ぶ何処までも続く深く濃い青空、周り何も見えないそれこそ正に地球の頂点の
白馬が次々と追ってくる深藍の海を、高さ20Mのマストに揚げたカラフルなスピンネーカーと
真っ白いメイン・セール(主帆)を長さ15Mの白いヨットが海を割り、波を乗り越へての行くこの
爽快感は、何ものも勝ることが出来ない此処だけのものである。
(3)
夜の10時頃より雷雲が海坊主の如く周りに立ちはだかり、黒い重い雷雲が稲光と割れる様な
雷音が、横殴りのNNEの烈風と共に艇を襲って来る。艇は左舷に大きくヒール(ヨットの左右の
傾き)し、スピンネーカーのシートやガイのロープがまるで鋼鉄の丸棒の様に張りつめギリギリと
滑車との摩擦音を響かせて暗い大波の中を突っ走る。
何時シートが切れるか、そしてヨットがブローチンク(強い追い風と大きな追い波でヨットが
前つのりに横転する危険な状態)゙して横倒しになりスピンネーカーが飛んで船底に巻き込まれ
ないかと思うと共に、周囲の海に次々に落雷する恐怖で喉がカラカラになって来る。しかも
ラプソデー・ビバーチェ号はアルミマストの鋼鉄船であるだけに、もしヨットに落雷したらと
想像すると本当に怖い。気休めかもしれないけれど、ヘルムス・マン(舵を取る人)には雷光が
すればラット(舵輪)から瞬時に手を離す様に、他のに持って行って応急のステー代わりにし、
メイン・セールを下ろして破れて暴れるジブを取り込む。何よりも20メーター近くある巨大な
マストが倒れなかったことを、神に感謝したい気持ちだ。艇はもと来たハワイの方向に
向かってかなりのスピードで走っている当直の乗り組みには落雷時に体がアースしない様に、
ゴム靴で船体の鉄以外の場所に留まる様に指示する。後は心の中で神様仏様にお願いし
お祈りを続ける。せめてスピンネーカーだけでも早い目に下ろして置けばよかったと反省し
後悔する。がレース中のこと無理を覚悟で最大のセールを張ることも定石でもあると自分に言いきかせる。
・ 10月14日(火)第3日目。(北緯21:17、西経163:14)・・・微風はカビの如く良くない・・・
夜中はずーと雷雲が海坊主の如く周りを囲む様に立ちはだかっている。横殴りの北北東の
風が吹き荒れて来る。
グーンとヒール(艇の左右の傾き)をしながらシートが強大なセールに掛かるテンションで
ギリギリと音を立てる。
暗い大波の上を何処までも暗い闇に向かって突走る。稲妻があっちこっちで閃きその都度
雷音が轟く。早々から大自然の洗礼を受け、甘くないことを教えられる。
夜明け頃から何とか雷雲も過ぎてくれる。相当走った様に思っていたら、朝焼けの中に
他艇の船影がかすかに見える。何となく皆に期待外れの感じが漂う。勝つ為にはもっと危険を
冒すべきなのかと自問する。雷雲の後の昼間は、全くの微風、微風はこのヨットにはカビの如く
良くない。微風と他艇の船影を見たことで、1時的な敗北主義の声が聞こえる。負けごとを
言うより1CMでも前に進める為の方法と行動をとろうと話し合い励まし合う。
当時勤務していた会社の社内報の編集者から”何故このレースに出るのか?“と言う質問が
あった。理由を付ければ一杯あるけれど結局は少年時代からの夢のひとつ・・・太平洋をヨットで
渡る・・・と、40歳になり自分の人生の残りの長さが判ったことではないだろうか、逆に”何故
貴方はレースに出ないのですか“と愚問をしてみたい衝動に駆られたことを思い出す。自分等は
間違っているのだろうか、しかし何に対して間違っているのか自分には判らない。
・ 10月15日(水)第4日目。(北緯20:13、西経165:50)・・・最初のブローチングと清水制限・・・
昨晩からよく帆走している。先日の様な夜中の強風を予想してスピンネーカーをライトのものから
ヘビーのものに張り替える。夜中の0時に予想に反して弱風なのでオールハンズで又ライト・スピンに
換える。04:00前から風が強まり当直交代時に再度へービーにオールハンズで張り替える。暗中に
動揺するヨットの上でのこの150平方メーターの巨大なセール交換作業は危険が一杯である。
ワッチ交代時は次のこれからの組は、まだ充分目覚めてないので特に注意が必要である。自分は
スタートしてからずーとワッチとワッチの繋ぎを務めるのがルーチンワークになっているので睡眠
時間が細切れになり、数十分眠っては起きる状態で1日に4~5時間程度となっている。それでも
天候が猫の目の様に変わり、その都度最適なセールのセッティングが必要となる為に眠っていない
ことなどは気にならない。夜明けに360度の水平線を双眼鏡で舐めるが如く他艇の船影を捜す。
何も見えない。昨日の無線での定時交信のロールコールでの各艇の船位からしても、これでやっと
日本艇からは前に出られ、SORCERY号はつい前を走っているものと考えられる位置となる。
(4)
これからは刻一刻真面目に走ることに専念すること、自分たち自身との戦いになる。
帆走することが仕事で、常に揺れながらのヨットの上では、食事はワッチの者が交代で作る。
それだけに生存の為の簡単な食事となる。当然のことながらアルコール類はスタート前の約束で
一切禁酒であり、スーパーマーケットもレストランも無い勿論冷蔵庫も無い此処では味や内容も
2の次3の次となる。大海原の上では、積み込んだ保存の利く食料だけが頼りとなる。
自然の真ん中では人は原点に立たせられる。それでもこれほど充実した生活が陸の上の
それまでの自分に在っただろうか、艇は朝からずーと10ノット以上のハイ・スピードでダイナミックに
突っ走っている。とよい気になっていたら追い波に乗ってサーフィーンしていたヨットがチョットした
舵の取り誤りでブローチングし大きく横倒しになり、船内外ともにトラブルが続出する。先ずは海に
落ちた150㎡の強大な海水を中にして、袋状になったスピンネーカーを引き揚げることから始めねば
ならないこととなる。これはとても人力では不可能な作業で、大波で上下に浮き沈みするヨットの
動きのタイミングを計りながらセールを引き揚げ、船体に固定しながら少しずつ袋の中の海水を
抜いていく。大変なロス・タイムである。その上マスト・トップのスピンネーカー用のハリヤードが、
滑車に食い込み、その丈夫な滑車を破壊してしまった。
大きく揺れるマスト・トップにメンバーの1人が上っての滑車の取り替え作業が続く。一刻も早く
帆走可能な元の状態に復旧して、西に進路を取ることが急務である。気が焦る。この時から毎朝
マスト・トップに人を上げ、点検することを日常作業の一つとして加える。その夜のワッチのT兄が、
ギャレーの清水ポンプから水が揚がらないと言って来る。ヒヤーとする。海上の船内では、水は
1番大事なもので生存に関わるものである。船底の清水タンクからポンプの途中のパイプに問題が
あった。他の残りのタンクの保有水量をM兄と詳しく確認した上で、翌日からさらに厳しい清水の
使用制限に入る。
残量は皆には少ない目に知らせ、用心の為に自分自身はその水量を記憶することにする。
・ 10月16日(木)第5日目。(北緯20:01、西経:169:46)・・・快走・・・
昨日から引き続き翔が如く突っ走る。コンスタントに10~15Mの力強いNEの貿易風が大きな
帆を追い立て、ヨットは1秒も気の抜けない緊張の状態で翻弄させられる。5時頃ワッチの
セーリング・マスターから「風が強いので小さなセールに交換しましょうか・・・」、との提案がある。
艇は左右に大きく揺れ追い波が船尾のトランサム(船尾の外板部分)を越えデッキにまで
上がってくる。例のブローチングのことを考え、開口部のハッチを閉めて準備はするもののレース
ゆえ、細心の注意でもう少しこのままのビッグセールで騙し騙し突っ走ることにする。艇は大きな
追い波に乗って矢の様に西へ西へと走る。空は白い雲と真っ青な青空、海は一面の白波、ミクロの
ゴミも含まないクリーンな空気。音と言えばヨットの舳が波を切る音と、周りで大波が自然に砕ける
時の音と、リギン(マストを支えるSUS製のワイヤー)を切る風の音だけの最高の走りが続く!
・ 10月17日(金)第6日目。(北緯20:10、西経172:55)・・・最高速度18ノットを記録する。・・・
朝8時オールハンズでジャイビィング(追い風の中で方向を変える為にセールを左右張り替える
こと)を行う。その間後ろの空の模様に気が付かなかった為に、急に風向が変わり暗くなって
来たので驚く。小さな低気圧の雲が直ぐ近くを追って来る。風が激しくなり痛いほどの雨が降り
つける。スピンネーカーが突風にあふられ艇が気が狂った様に走り出し大きく揺れる。大きな波と
違う方向からの突風で操船が困難となり、スピンネーカーが吹っ飛び艇は我々の意思に反し
コースを外れ、恐ろしいブローチングが始まる。再びオールハンズ・オンデッキを掛け、艇を我々の
意思に従わせようとする反面、最悪を考えて艇の開口部を全部閉めて廻る。2人がかりで舵輪を
押さえつけても風の力の方が強く、ついにブローチングする。真横に倒れてから艇は勝手に
50度から60度に傾き、しゃくりながら風上に立ち直って行く。繰り返しの横転で艇のコクピット
(操船する為の船尾デッキ上の囲まれた空間)に大量の海水がぶち込んで来る。
(5)
風上に向かった艇はやっと立ち直ったので、何回ものブローチングで慣れてきた巨大なスピンネーカー
からの海水の排出後、あらゆる手段で艇を我々の意に従わせる。烈風もやや収まり何とか元に戻る。
レースでもなければ縮帆するのだが、直ぐ又もとの大きなセールを張り直し、まだ激しく波立つ海を
西に向け疾走する。
このブローチングは自分にとっても今までの中で1番キツイものであったが、此れからも何回か
遭遇するであろうことを予想して、皆にはそうでもない様に話す。
しかしこの時の艇速はこれまた今までに無かった、この艇の最高速度18ノットを記録する。
清水の制限、12名で1日凡ての水を合わせて18Lのポリ・タンク1個の制限に続いて、フルーツ類の
制限に入る。日持ちのするリンゴは後に残し、サンキスト・オレンジを各ワッチ6名に1個とし、それを
6等分に切ってその1切れを舐める様に賞味する。乾いた喉にこれがその香りと共に、なんとも言えない
幸福感を与えてくれる。お米は勿論海水でといでから、充分に脱水し真水を入れて炊飯する。口も
漱がないし歯もブラシで掃除するだけにして歯ブラシは海水で洗う。出来るだけ塩分を除いた食事に
努めてもらうように皆に話す。燃料は積み込んできたプロパン・ガスでこちらの方のボンベは充分在る。
今日の走りで夕方のロールコール(レース中の各艇が予め決められた順番に従って、各艇の現状と
その時の位置を無線で報告すること。)で先を行くSORCERY号との距離が縮まって悪くない位置に
あることが判る。他の日本艇も大分引き離す。が何故かKAWAMURA号だけが前にいる報告、
これはおかしい!天測の間違いではないか、フェントを掛けているのかなどなどと、皆で大いに語りあう。
・ 10月18日(土)第7日目。(北緯19:50、西経175:45)・・・大海原、地球の頂点に立つ。・・・
スタートして1週間が過ぎる。午後3時頃までは風速10~15M毎秒ぐらいの良い風が続いていたのが、
それを越える強風になってくる。艇内に臭気がこもり出して来たので、換気を工夫し冷蔵庫やシンク
などを掃除して廻る。
またしても水のことが頭をもたげる。清水制限は本当に辛く大変で、毎食時に決めらたれた量のコップの
清水に、サンキスト・オレンジ6分の1の配給だけである。船出の時にもっと積めばよかったなどと、
無駄な後悔がしきりに頭を過ぎる。今日から日中の日陰以外での裸は、水分損失の為やめようと
申し合わせる。
毎日背に日の出を仰ぎ、顔面に夕日を拝む。白波の太平洋はあくまで広大でその水は最高に清浄で
ある。貿易風は常に吹き、休むことを知らず爽快な東風を送り続けてくれる。周囲は見渡す限りノコギリ状の
水平線と真っ白に輝く波また波。色々な形状のそれぞれ孤立した高い雲の像が周囲を取り囲み、頭上は
青黒い青空が宇宙の果てまで続いている。
空気もあくまで無塵で清く、その為か鼻毛が伸びないことを発見する。聞こえるものは波の音とスピン
ネーカーのはためく音と、こまめに操舵されている舵輪が軋む音と若者の話し声だけだ。波頭が砕ける
巻波に太陽の強い光が透けて見え、青氷の如くキラメく。なんと自然の大きく綺麗で素晴らしいことか!
1日見ていても飽きるものでは無い。
波の群れを次々と追い掛けて、舳先の鋭い大きなナタで切り進む。舳先に立ち尽くしていると、自分の
実存が体全体に感じられる。ここは人間の原点なのだ。自分の出来なかったことや見果てぬ夢を、
子供に託す様な父親には絶対になりたくないとその時に心する。
・ 10月19日(日)が日付変更線を越えて20日(月)第8日目。(北緯20:12、東経179:48)
・・・今日午前11時ごろ日付変更線を越える。・・・
(6)
日付変更線を越える前に、久し振りにシャワーが来そうなので総員で集雨作戦を展開する。約1時間で
10Lの雨水を集める。その3分の1を特別配給する。粉ジュースを溶いたものとお茶を各人コップ1杯ずつ、
なんと美味しくありがたいことよ!
正午のワッチ交代時に日付変更線通過記念のセレモニーを行う。S兄が決めた特別食の内容は
パイナップル 2個
リンゴ 12個
オレンジ 6個
コンク・ジュース 各人1杯
ワイン 2本
飛び魚 3匹 (ヨットに飛び込んできたものを干して置いた物)
久し振りの少量のアルコールに皆な直ぐに酔ってしまい、日焼けの顔が更に赤くなる。トイレット
ペーパーをスタートのテープとして、大の男達が阿波踊りともアフリカの原住民の踊りともつかない踊りで
デッキ上を踊りまわる。艇のスピードも上々、気分は最高!
夕方のロールコールでSORCERY号と経度で約50分遅れで2位をキープしている。これからのコースを
北に上げるか、南に下げるかこの辺が勝負の分かれ道となるだろう。皆の意見を聞く。しかしその
当時はGPSも人工衛星からの気象情報も無く、“神のみぞ知ること”となる。わが道を行こう。今の所
全く悪くない。風を吹け吹け。この前の夜のあの恐ろしい様な激しい風での帆走が必要だ。
・・・この様に現実社会から飛び出した生活、TVも新聞も、勿論現在はあるパソコンも無く、我々乗り組みの
メンバー以外には人との接触も無い、酒も女性も居ない、パーテーも結婚式などのセレモニーなどとも全く
無縁なこの環境で、いったい何に1番不自由を感じているのだろうか。自分にとっても皆にとってもこの
ヨットでの毎日が当たり前のことで、水の節約以外には何の不平や不満も無く、当然の如く生活をしている
ところを考えると、陸の上の生活には何と無駄なことが多過ぎるように思えてくる。経済新聞を読んで
置かないと何となく不安を感じる生活と較べてみる。風速15メーターの大海原を左右前後に大きく
揺れながら夜も昼も見えない相手と競争し続けるこの瞬間、瞬間の今の生活の方が確かに充実していると
感じる。勿論この競争に勝ったところで、何も変わらないこともよく判るのだが・・・同じ苦労を続けている
参加艇の同輩に対し、親しみが更に大きくなる。
人間の幸福とは、車が在って上等な服を着て、高級レストランで美味しい料理を食べられるから等々の
物質の充実だけでは絶対に無いと、自分は思う。物の満ち足りたところだけで、本当の満足が持続する
ものなのだろうか、勿論ヨットの上だけでは生きて往けないが・・・
・ 10月21日(火)第9日目。(北緯20:13、東経176:25)・・・疾風の中での帆走の基本・・・
昨夜の23:30頃から今日の00:30の掛け激しい突風と共にスコールの中に入り込み凄いブローチングを
食らう。
人、艇共にダメッジが無いのが不思議なくらいだ。スコールは夜目にも追って来るのが判るのだから、
その規模を判断して事前に荒天準備をして置くべきであったところ、そのワッチの判断の甘さの結果
無防備で食らった為に、夜中の1時間余をオールハンズで危険な復旧作業となった。大自然を見くびっては
いけないことを又教えられる。
これからは熱帯低気圧(台風)の発生し易い海域に入る。突風を伴ったスコールの襲来に備え、次のことを
取り決める。スコールの来襲が予想されれば
1. トール・ボーイ(スピンネーカーとメイン・セールの間の風を無駄にしない為の縦長のセール)を下ろすこと。
2. スピンポールを前方に突き出し、スピンネーカーの面積を小さくすると共にフォアー・ガイ、アフター・ガイ
(いずれもスピンネーカーの底辺隅に繋がるロープ)にテンションを掛けてスピンネーカーを固定することに努める。
(7)
3. メイン・セールを引き込み風の受ける面積を小さくすること。
4. スピンポール(スピンネーカーの風上側を支持する為に、マストから横に張り出す太い長い
アルミ製のポール)を低くし何時でもスピンネーカーを飛ばせる体制をつくる。
5. ジェノア・ジブ(マストの前に張る大きな三角帆)を素早く揚げられる様に準備して置くこと。
要するに基本に立ち返ることである。
何時もながらオールハンズ・オンデッキを掛かる時の気持ちは、イヤーな恐ろしい気持ちである。
ましてや闇夜、激しいスコールの中などは身の危険を感じるだけになお更である。しかし“艇の安全
無くして我々の生命は無い。”と自分に言い聞かせて飛び出す。
・ 10月22日(水)第10日目。(北緯20:32、東経174:44)・・・冷えた水とお風呂が欲しい。・・・
スコールの後 風が弱まり3~4メーターの軽風が続いている。みんな落ち着かないで士気も上
らない状態となる。ロールコールでSORCERY号と160分の差は マ~マ~としてもKAWAMU―
RA号との差が少なすぎる。こんな微風なら軽い小さなピンポン玉の様なヨットの方が有利であるの
は確かだが・・・。コースでは我々が1番南を、1番北をSORCERY号が、その南をKAWAMURA
号が位置している。風次第で南北が逆転する。何時の時点で北に向けるか思案して悩む。今は
ヨットを1cmでも前に進めことに専念しよう。本を読むことも止める。
人は言うかも知れない。“君たちのやっていることは、非現代的で、非文化的な生活でない生存そ
のものだ“と。しかし次から次に情報を創り出し?その吸収と消化に人生の殆どを費やすことが文化的な
ことなのだろうか、いや違う。皆は都会の陸上の生活しか知らないで、他の生活が在ることに気付いて
いないだけなのだ。
心を落ち着かせる為にカセットテープで音楽を聞く。音楽はヨットに風が必要な様に、人間には
必要なものだ。
多くなってきたスコールの時は、暴れるスピンネーカーの処理に追われて清水の採取は出来ず節約
が続く。今日でパイナップル、茄子、ピーマン等がほぼ限界に来た。1番早かったのはバナナ、
キュウリでこれらは3~4日前にダメになった。キャベツが予想以上に日持ちがしている。命水で
あったサンキスト・オレンジも水気が抜け始めてきた様だ。人参、ジャガイモ、玉葱、南瓜類は健在
だ。冷えた水と、ビールとお風呂が欲しい。も~10日も入浴をしていない。洗剤を体に塗って海水を
かぶり、直ぐに拭き取って塩分を残さないようにする。空気が綺麗なせいか体が陸の上に居る時
よりも汚れないのはありがたい。風が落ちてから更に睡眠不足が続く。1日3時間余りとなる。
・ 10月23日(木)第11日目。(北緯20:40、東経170:35)
・・・ジャガ芋の海水茹よりご飯が、お酒より水が欲しい。・・・
ミッド・ナイトから微風が続く。日中の気温が31℃~32℃、空気が澄み切っているので日射が強い。
皆の動きが随分鈍くなる。疲れて来たのと清水制限と微風による精神的な焦りから来るのだろう。
この状態では特別にヘルムス・マン(舵持ち)とセール・トリマー(セールを操作するメンバー)と食事
当番以外は日陰で休んで良い事にする。水の節約の為にご飯も1人1日1回1杯とし、1日4回炊いて
いたお米に変えて、ジャガ芋の海水茹をバター等で主食にする。15時頃にかすかに雨滴を感じるが、
採取は出来なかった。風がやや南に振れる。
気分転換の為と雨乞いと、ウエーキ島まで後1日などなど色々のお題目を付けて、夕食時に2回目の
お酒、ワンカップの清酒を総員デッキでバラ寿司と、広大な海に沈んで行くそれこそ真っ赤な大きな
夕日を肴に日付変更線以来の乾杯で気勢をあげる。清酒がウイスキー程の強さに感じられ、正直
お酒より真水の1杯の方が今ならば嬉しいと思う。
(8)
・ 10月24日(金)第12日目(北緯20:23、東経167:55)・・・人生は短い。・・・
夜中は余り走らず。04:30シャワーが来る。暗中でセールを広げたりして約12Lをものにする。
08:00から12:00まで南よりの風を受けよく走る。この調子なら今夜の21時から22時頃に
ウエーキ島の北を通過するだろう。16:30頃大きな雨雲の下に入る。全員で子供の様に はしやいで
約25~30Lの雨水を採る。粉ジュースを入れてホットオレンジを作る。久し振りに渇きから開放
される。ロールコールではSORCERY号とはあまり離れずKAWAMURA号とは昨日より差を空け
る。今日のところは南の方が良かったことになるのだろう。
塵も無い匂いも無い全く綺麗な空気の中にいると、臭覚が異常に鋭敏になることを発見する。
キャビン(船室)の中で何か匂うので船内を捜索する。異臭はキャビンの床下に仕込んで置いた缶
詰めであった。ブローチングで何度も横転し船底のビルジ(船底に溜まる水垢)が床下にまわって缶
が腐蝕してピンホールが出来、中身がダメになったものを10個以上も棄てる。
午後から風が落ちる。微風の中強い日射と疲労とが出始めた皆をレースだけに集中し、レースへ
の意欲を継続して貰う為に人に倍する率先垂範が大事と心する。反面 40歳にもなって若い人と一緒に
こんなことをしていても良いのだろうか・・・、とも自問する。しかし人様々、何も無理をして
一般的な普通の生き方をすることも無いだろう。が肉体的なもの、体力は歳相当になって行くの
だろうな~。“人生は短い。これから如何に生きるべきか”風が無くなると又浮世のことが頭をかすめる。
・ 10月25日(土)第13日目。(北緯20:05、西経165:30)・・・スピンのアフター・ガイが切れ、
緊急事態が起きる。・・・
夜中より殆ど走らず。風の吹かない時は、まるで真夏の「鳥羽パールレース」で良く出会う遠州灘
のベタ凪レースの様だ。しかしここらは雨雲が次々に追って来て、その前後で風が急に変わり真下
に入ると突風が吹く。そして雲が過ぎると無風に近い状態になる。その度に大きなスピンネーカーを
下ろし、ジェノア・ジブ(マストの前に張る大きな3角帆)に張り替える作業は大変だ。その都度起き
出して当直メンバーに加わる。
11:00時頃より急に風が強くなりアビーム(真横からの風を受けて走る状態)で走っていた艇の
スピンネーカー風上側の太いアフター・ガイがスピンポールの付け根の辺りで切れブローチングを
してしまう。オールハンズで空高く舞い上がってしまったスピンネーカーを取り込もうとしたが、マスト
トップでハリヤード(スピンネーカーを揚げている太いロープ)が強大なスピンネーカーが受ける風の
力で滑車に食い込み、これを破損させ滑車が回らなくなってしまう。下ろすことも外すことも出来なく
なる。マスト・トップではためくスピンネーカーの風の力がマスト・トップに掛かり、艇が非常に不安定
な状態で、のた打ち回り始め手の施しようが無い危険な状態がしばらく続く。O兄が自発的に大きく
揺れている20メーターの高さのマスト・トップに上がり壊れた滑車を取替えてことなきを得る。これは
O兄の英雄的な働きの賜物だ。損害はアフター・ガイ1本、シート1本流失、大型のスナプシャックル
1個、特大の滑車2個、大型1個、セールの損傷箇所3箇所であった。原因は常に力が掛かって
いるアフター・ガイがスピンポールの滑車の所で連日の度重なる摩擦でロープが磨耗した為であった。
しかし本部への定時の無線報告では“艇、乗員とも異常なし・・・”となる。「西部戦線異状なし」
を想い出す。これくらい連続して帆走すると波の大さや風の強さ、艇のスピードに麻痺して来て少々
のことではピンと来なくなる。やはりこれは危険だ。こんなに長く続けて走ったことが無いので、長時
間帆走における艇の弱いところが判らなかったのが未然に防げなかった大きな原因だった。いずれ
にしても外洋レースは命がけの遊びだ。この間の1時間半のロスとなる。事故の大きさが段々大きく
なる様に思われるので心を引き締めて往こう。
(9)
再発防止策の1つとして、この日からこれまでの毎朝8時の当直交代時に艇長責任作業として、
クルーの1人をマスト・トップに揚げてマスト・トップ周りの点検をしていたのを、総員監視の下で夕方も
行うことに決める。このマスト・トップ以外に動索類の点検は凡てについて毎日行うことも申し合わせる。
結局送れてウエーキ島は朝5時通過となる。フイリッピンの東に熱帯低気圧が発生する。要注意だ。
・ 10月26日(日)第14日目。(北緯20:01、東経162:37)・・・日本は海洋国家?・・・
夜中から前線の大きな雨雲の中を3~4時間も走る。雨又雨で風は前方から、このところ天候が
不安定になっている。昨日の熱帯低気圧が台風に成長する。気温も下がってその分睡眠がとり易く
なり久し振りに雨の音を子守唄に眠る。
朝からは晴れて風も出てよく走る。ロールコールではSORCERY号とはあまり離れず、KAWA―
MURA号は離す。あんなに大きなトラブルや無風が在ったのにと、安心する。他艇も苦しんでいるのだろう。
さ~勝負はこれからだ!
ホノルルを出てから14日目に入ったがその間に船影を見たのは同じレース中のヨットがスタート翌日に
3艇、スタートから2日目に見た日本の漁船が1隻だけで船灯も見えない毎日だ。生き物はほぼ毎日ヨットに
飛び込んでくる飛魚、3種ないし4種類の海鳥が2日ないし3日に1度ぐらい、イルカは夜に1度だけ、後は
艇の回り360度連続した水平線とその上に連立して並ぶ雲柱と西に向かって飛ぶ雲と太陽と青空ばかり、
やっぱり太平洋は広いし大きいな~と実感する。
艇内のメンバーの話題はその時の状況によって違うが、何時も話題になるのが冷えたビールとジュースの話、
恋人や女性の話、沖縄に着いた時にすることが殆どで、あまりレースの話が出ないのは何故だろうか?日常
業務になったのか、走ることにマンネリ化してしまったのか、しかし自分はポスト太平洋横断レースのことが頭の
中にちらつく。
そんなヨットのことを考えると、何よりも先にこのレースに参加する直前の小型船舶に関する海事法令で苦労し
苦しんだことが、忌々しく頭を覆う。周囲を海に囲まれ資源に乏しい日本が、海を外しては存続し得ないのに、
海洋国家とは名ばかりでその海と船の行政を司る海運局の発想の乏しさと、ビジョンの無さには、怒りを越えて
情けなさと哀れみを感じてしまう。現場の実情を充分に調査も把握もしないで実情に合わない法律、ヨットも含めた
小型船舶関連の海事法令を創ってしまう役人は、次は出来た法律を楯に権力の行使に終始し、本来真っ先に
やるべき“海と船の望ましいあるべき姿”の方を失念してしまっているのだ。
世の中には色々な人が居るが、その人の職業や立場はその人の本来の個性より強くなり、表向きの個性を変えて
しまうものなのだろうか、役人は役人らしくなり銀行員は銀行員らしくなる。自分はそんなことが1番嫌いなのだが、
会社における自分はやはり設備会社の中間管理職にハマっているのだろうな~と思ってみたりする。しかし顔が
1人1人違うように、例え同じ仕事をするにしても個性(自分)はあってほしいと思う。お役人はそう言うことが
出来ない職業と立場で在るのだろうが、せめて非は非と認め改善することに働きかけることぐらいはやらないと、
決められたことしか出来ないならロボットと同じではないだろうか、在り得ないことだが自分がお役人になっていたら、
そうするだろうと思う。個性の無い夢の無いことは人間として嫌いだ。この艇のメンバーの殆どは個性と夢のある
人種だ。そんなことを考えている夜の9時ごろ、大きな雨雲に急に捉えられスピンネーカーを下ろすタイミングが
ずれて大きなブローチングを3度ばかり食らってしまう。艇の傾きからすれば今までの最大級かもしれない。キャビン
トップに取り付けてある通気孔から大量の海水が流れ込む。後の処理の悪さもあって約1時間半のロスとなって
しまう。慣れと疲れでスタート時点に比べ、集中力が鈍って来た様だ。原点に返らねば・・・・硫黄島の東で熱帯性
低気圧が発生した。注意だ。
(10)
・ 10月27日(月)第15日目。(北緯20:41、東経158:06)・・・熱帯性低気圧が接近・・・
昨夜のトラブルの後風も強くなりよく走っている。朝と夕に大きく揺れながら疾走する海面20メーターのマスト・
トップに人を引っ張り上げてハリヤードや滑車や航海計器などを点検する。摺り痛んだロープ類は直ちに補修する、
まるで消耗戦だ。短波放送で昨日の熱低が東北東に毎時20kmで動き出し始めた。我々は西に行くので
かち合うことになる。明朝から荒天準備に掛かることにする。
考えてみればこのレースは全く苦労と気疲れと心配と不自由が殆どだ。それでもこの艇のメンバーは皆なやる
価値があると思って居るのだから世の中人様々だ。今はただただヨットを走らすことに専念しよう。
・ 10月28日(火)第16日目。(北緯21:00、東経155:50)・・・海、その大きな包容力・・・
スタートしてから早や半月が過ぎる。長い様でもあり短い様でもある。スタート後毎日毎日大空と大海原と風ばかりで、
しかも地球の頂点に何時も浮かんでいるので昨日も今日も周囲の状況は同じと言えば同じだ。違うのは海図上の
位置だけだ。
この大きなスケールからものを見ると殆どのことが取るに足らない小さなことに思えてくる。昔大学を卒業して
初めて船会社の本船でインド洋を渡った時、またその後メキシコの沖を航海していた頃、その大きな海と素晴らしい
大空に若き胸をときめかしたことを想い出す。その後陸に上がって毎日小さな生活範囲でその日その日を送って
いた時、嫌なことや苦しいことがあった時は、あの大空と大海を思い浮べて気分を紛らしたものだった。海その大きな
包容力に、一種の神に近いものを感じる。昔読んだ 「白鯨」の様な大きな鯨になった気になる。
15:00時頃大きな雨雲に出会う。皆な嬉々として雨の中でパンツ1枚の裸になって雨水の採取と身体の洗濯に
忙しく立ち働く。60Lを確保する。3日分をゲット! ロールコールでSORCERY号とはこの2日で約50海里詰め、
他の日本艇を大分離す。KAWAMURA号は交信なし。さ~これからが難しいところだ。昨日の熱低が崩れた。
その中を走る。周囲は雨雲の厚い壁又壁、風向は絶えず変わり風力は殆ど無し。一刻も早く逃げ出さねばと
気が焦る。
夜になっても風は吹かず無風状態が続く。ここらは台風の発生地帯だ。毎日毎日東の方から強力な太陽の熱で
海の水を蒸発させながら吹き続けて来た貿易風が息切れする所だ。と同時にその雲の中に蓄えたエネルギーが
一堂に集まる。周りは黒い動物的な形状と動きをする雨雲ばかり・・・・。
・ 10月29日(水)第17日目。(北緯20:30、東経183:15)・・・無風状態が続く・・・
昨夜からずーと引き続き雨雲が立ちはだかる壁の中、艇速は上がらず艇内は湿度100%、蒸し暑く触れる物
凡てべとついて気持ちが滅入る。それに最も悪いことは長時間風が無いことだ。話し声無し。朝8時前 辛抱
しきれなくなってチョット無理かと思ったが、ライト・スピンネーカー(微風用のスピンネーカー)を揚げる。途中で
フォアー・ステイ(マストを船首から支持するSUS製のワイヤー)に風が振れて大きなスピンネーカーが絡み、
揚げるも下げるも出来なくなる。もしここで強風が来れば大きな事故になることは歴然であるので、大至急に
身の軽いT兄をマスト・トップに揚げる。前後左右に大きく揺れるマストからのハリヤードにぶらさがりながら、
絡んだロープなどを切り離したところで、T兄を吊り上げていたハリヤードのロープとワイヤーとの繋ぎ目が、
殆ど切れ掛かっているのに気付く。もし切れていたらとぞっとする。急ぎ予備のロープを揚げ、若いT兄の体重を
移し換える。
T兄がスピンネーカーの上部から絡まった順に廻しながら解いて行く。スピンネーカーとT兄を無事回収し、
ひと安心する。以後マスト・トップに揚げる際は2本掛けにすることに決める。ヨットはやはり念には念を
入れないと危険が一杯の遊びだ。
(11)
ヨットは幾らその大きな翼であるセールを待っていても、自分で羽ばたくことが出来ないゆえ風が無ければ
どうしょうも出来ない。も~何時間も不気味な雨雲の中にじっと息を凝らして耐えている。
神様貴方はどこに居られるのですか・・・・、どうか助けてください!
20:30時頃から1日半振りに風が吹き始まる。
・ 10月30日(木)第18日目。(天候悪く天測出来ず。)・・・風悪く走らない・・・
正午を大分過ぎてから夕方16:00時頃まで少し走りを続ける。今日はロールコールの日、出来なかった
試験の発表を待つ様な不安な気持ち。案の定SORCERY号に離され他の日本艇に近づかれる。無風による
丸1日半のロスが大きくひびき悔やまれる。この辺りは前述の様に熱低の出来る海域、下手すると蟻地獄に
ハマり込んだ様なことになりかねない。フイリッピンの東で台風が発生、今のところ停滞している様子。今夜
経度180度線を越える予定。18時から進路を徐々に北に向けて変える。あと1週間か、このコースは大丈夫゙
なのだろうかと、自問する。昨夜やっと抜け出したと思った熱低の雨雲の厚い壁が前方に立ちはだかっている
のが、星の光の暗い彼方に確認する。闇夜風向が定かでない風に乗ってあの薄赤い雲の壁に突き進んで
行くのは、本能的に恐ろしい。子供の頃の夏の夜の “肝試し“ を思い起させられる。
・ 10月31日(金)第19日目。(北緯21:03、東経147:31)・・・夜中に怪我人が出る。・・・
10月も今日で終わり、台風が動きだし北東に向かっている。要注意だ。03:00時ごろデッキの上の異声で
飛び起きるとスピンポールのリフトが外れスピンネーカーが踊っているところだ。当直の5名の内の1人が
大便中でフォアーデッキの3名が指揮者無く的確に動いていない。そうしている内に恐れていたスピンネーカーが
フォアー・ステーに絡む事態となる。風が強い方なのでやむなくオールハンズ・オン・デッキを掛ける。深夜のオール
ハンズは良く眠っているところなので掛けたくないが、艇の安全維持から仕方が無い。O兄をマスト・トップに
揚げる指示を出した直後にフォアーデッキで作業中のM兄がバタつくスピンネーカーの端部か、ロープに叩かれ
目の上を切り一種の脳震盪を起す。O副艇長に手当てを依頼するが、M兄が1人で立てなくなっている様で
キャビンから2~3人の手を要求される。デッキ上も大変なので取りあえず2名をキャビンに送り残員でスピン・
トラブルの処理をする。約30分で終える。この事故に関してこれから以後の当直中の大便、長めしはしないことを
申し合わせる。ヨット・レース中は戦場と同じだ。何時何が起こるか分らない。もし今晩の様に脳震盪で気を無くし
闇夜の海にでも落ちたら・・・それよりもあと1.5センチ打ち所が外れていたら失明だったかも・・・今度の事故は
油断からの人災だ。外洋のヨット・レースは危険な男の戦場である。
朝2隻目のマグロ漁船を沖に見る。走りは満足なものではない。こう北も南も同じ様な雲の具合、波の具合では
どちらに行っても大差無し、なす術知らずと、不思議に2~3日前から変に悟りの様な境地に達し決めたコースを
走るだけだ。海がこうも広くては、あくせく風を探してコースを変えるのもこのスケールには合わず、ピンと来ない
心境になる。ここでは微風だが800キロ程先では風速30メーターを越える台風17号が荒れていると言った具合だ。
先行しているシングルハンド艇(1人乗りのヨット)の何隻かはこの台風の影響を受けていることだろう。闇夜
風速30メーター、波高6メーターを越える修羅場の海を1人でやるのは本当に大変だろうな~と無事を祈る。同じ
海の道を行く者でなければ理解できないことだ。
ここではカンカン照り、気温34℃、デッキの彼方此方をセールの影の涼を求めて移動する。冷えたビールと真水の
お風呂と美味い食事のことが頭の中を占める。大分里心が付いてきた様だが何もこのレースが早く終わって欲しいと
言うことではない。今までもこんなことが終わりに近づく頃、何となくもの侘しい気になったものだ。旅が終わる頃、
ヨットで本州一周を殆ど終えて瀬戸内海に入った頃、長く打ち込んだ仕事が終わる時などなど・・・・しかし今回は
準備も計画も大きかっただけ、何か充実したものを持って終わりの幕を引きたいものだ。そろそろ次のことを考えねば・・・・。
(12)
・ 11月1日(土)第20日目、(北緯21:53、東経145:24)・・・海で地球最大の舞台を楽しむ・・・
ついさっきこれまでと同じ様に左前方の雲の間にオレンジ色をした太陽がゆっくりと沈んで行った。
そのあと西の空が華やかに色付き、地球最大のスクリーンで陽光と雲と海の語らいが始まる。雲が多くの仲間と
一緒になって多彩な舞台効果を挙げるべく、それぞれが一生懸命にそれぞれの役を努める。このところこの時間が
1番安らぎを感じる。朝早くから太陽が照りつけ、日中は33℃~34℃迄気温が上がる。デッキの上ではマストが
その幅だけの影を造る唯一の日除けとなる。風は弱く大気はあくまで清いが故に、その陽射しは肌に痛い。大きな
白いセールとカラフルなスピンネーカーが気だるそうにバタついている。
こうなると人はそれぞれ反応が変わってくる。ある者は気が狂ったかと思うほど、突然大声で風を呼び空を呪う。
ある者はこの現状から逃げたくなる理由だけで、コースの変更をしょうと話しかけて来る。又ある者はただ不機嫌に
むっとして耐える。海水をがぶがぶとバケツからかぶり、かぶりする者、人それぞれだ。
自分は真夜中の2時ごろに寝て早朝の4時から5時頃に起き、それからずーとデッキの上で日が沈む迄過ごす。
その後1時間か2時間仮眠しての毎日となっている。本当に大海と大空は満喫した。飽きた訳ではないが風の
少ないこの状態は も~沢山だ。風が欲しい。今日のロールコールではSORCERY号が台風の風を拾って、又少し
前に出られた。他の日本艇とは更に離れる。気分転換に16時から“風恋いパーテー”をフルーツポンチの缶詰を
開けて全員集まって開く。勿論アルコールは無い。それが又美味しい。
・ 11月2日(日)第21日目。(北緯22:19、東経142:44)・・・風向きが替わって来る。・・・
昨日の風恋パーテーの甲斐があったのか早朝の4時頃より南西の強い風が吹き出す。今までの風向は
後方からの貿易風だったが、これは前からの風だ。今までお世話になったスピンネーカーをNO.1ジェノアに
変えて向かい風の中、波を蹴って海を割り艇は走る。次々と迫る大波に向かう為に舳先で砕いた海水がデッキの
上を洗いデッキ上のハッチが開けられないのでキャビンの中は湿度100%近くとなっている。だが確実に西に
向かっているので文句は無い。16:30時やっと届いたNHK第2放送の気象通報を30度ばかり右舷にヒールした
状態で天気図に取る。台風17号崩れがすぐ北にあり、それからの前線が往く手の空いっぱいに横一文字に見える。
黒い雲の帯と、水平線の間は悪魔的な緋色をした雲がある。セールを大きなジェノアから荒天用の小さなものに
換えて前線突入の準備をする。雷光があっちこっちで光る。艇の周囲は5から6メーターの大波の壁だ。
・ 11月3日(月)第22日目。(北緯22:49、東経139:31)・・・最大の事故、マストが!!・・・
午後1時過ぎメイン・セールをワンポイント・リーフ(風が強まるのでセールを小さく縮帆すること。)したいと
当直のセーリング・マスターから声が掛かる。当直メンバーだけで作業を完了した後、暫く過ぎてからそれは
起こった!バーンと言う今までに無い何かが切断する音とショックで、急ぎデッキに飛び出す。バック・ステー
(マストを船尾から支持しているSUS製のワイヤー)を持つとブラブラで前の方でジブが破れ、はためいている。
「フォアー・ステーが切れた!」と悲壮な声が飛ぶ。マストは奇跡的に強風の中に立っている。大声でオール
ハンズ・オンデッキを掛け、先ず艇を180度回転させて東に向け、マストの掛かる風圧を健在なバック・ステーに
負担させる。スピン・ハリヤードを船首に持って行って応急のステー代わりにし、メイン・セールを下ろして破れて
暴れるジブを取り込む。何よりも20メーター近くある巨大なマストが倒れなかったことを、神に感謝したい気持ちだ。
艇はもと来たハワイの方向に向かってかなりのスピードで走っている。
(13)
これを少しでも食い止める為、50メーターの太いロープでシー・アンカー(船尾から海水の抵抗になる物を流し
船足にブレーキを掛ける為のキャンバス製のパラシュート型の袋。)を繰り出す。それでも艇は2ノット位で東に
流されている。台風崩れの熱低が引っぱる大きな寒冷前線が頭上近くを低く広くのし掛かって来る。風も強く
海はうねり波浪は高い。
原因はフォーステーの下部の端末のトングル(SUS製のワイヤーを船首に固定する為のSUS製の穴の開いた
接続金物)と船体とを接続している太いピンのSUS製の割りピンが抜けてしまったことによるものだった。急ぎ
それほど重要でない他のサイド・ステーのピンと取り換え応急処置をする。ジブをNO1に張り替え、メイン・
セールを2ポイントに縮帆してシー・アンカーを揚げて、再び西に針路を向ける。それでも艇は寒冷前線の冷たい
強烈な雨の中を、スプレーを上げて狂ったように疾走する。この間のロスは約2時間と、東に逆戻りした分も
含め25マイル分だが、もしマストが倒れていたら万事休するところだった。今回は今までの中では最大の
事故であった。M兄とO兄の大きく浮き沈みしているバウ(艇の船首部分)で、時に大きな波の中に腰から下を
浸かりながらの必死の復旧作業が無ければ、もっと後れを取った事だろう。二人を含め皆な頼りになる
メンバーだ。いずれにしてもこの11月3日文化の日は、生涯に残る日になるだろう。この事故で8箇所ある
ステーを含め全部の割りピンを今後の点検箇所にする。
ロールコールでどの艇も前回と変わらない相対関係にあることを確認する。乗り組みの家族が7日に沖縄に
入るとの連絡を受ける。その中に沖縄に着いてから結婚式を挙げるT君のフイアンセも乗っていることがわかる。
急に陸の現実が身近に感ずる。
・ 11月4日(火)第23日目。(北緯22:50、東経136:27)・・・風はもう秋・・・
あと3日ほどでゴールか、急に現実の社会が浮かび出てくる。久し振りの陸や家族や友人や街の灯などなど・・・・
会社があって仕事があって、この航海に出る前と同じ周りが我々を待っている。
気持ちを覚まし、まだゴールをしていない内から陸のことを考えるのは止める。ヨットはホームポートに着いて
定位置に舫う迄、何が起こっても可笑しくない乗り物だ!一刻も早くゴールを切る為に事故を起さないで最後の
コースを走るのみ。北東の風を受けてブロード・リーチ(斜め後ろからの風を受けて帆走する状態)で快走する。
沖縄に向けて北に上っていることもあり、風はもう秋の気配を感じさせ、夕方は陽だまりが恋しいほどになって
来る。4、5日前の夏の暑さが嘘の様だ。リーチヤー(横出しのスピンネーカー、最近ではジェネカーとも
呼んでいるスピンネーカーの類)のアフター・ガイに掛かる風が強く、毎日点検しているのに切断するトラブルが
起こる。
・ 11月5日(水)第24日目。(北緯23:24、東経132:51)・・・SORCERY号がゴールする!・・・
ロールコールでSORCERY号が4日17:46にファーストホームする!
ハンディキャップは3日と12時間余りあるので8日の早朝にゴール出来れば我々の勝ちになる。これは充分に
可能性が残っている。しかし他の日本艇とは2日以上あけなければならない。こちらの方が問題だ。今更特別な
作戦などは無い。一刻、一刻を大切に舵を執りセールを操り、絶対にトラブルを起さないようにすることのみだ。
後は風の神様の支配されること、沖縄のラジオ放送も入ってくる。念を入れて凡てのハードウエアーを点検する。
スピンポールのマストの受け金物を、SUS製の丈夫なシャックルで補強する。
(14)
・ 11月6日(木)第25日目。(北緯24:46、東経130:25)・・・神様!貴方様は・・・
. 神様! 貴方様は何と意地の悪い無慈悲なことをされるのですか!! 今朝の4時から殆ど風が無くなり
後2時間、後4時間と耐えられるだけ耐えて風の吹くのを待ちましたが未だ吹きません。
天気図によると周りはみんな風が在ると言うのに・・・・も~12時間も同じ状態です。SORCERY号とのタイム・
アローアンス(時間の余裕)を考えると、みんなここまで来て気が気ではありません。明日入港出来ると予想
していたのに・・・揺れながら24日も頑張ってきたのに・・・・貴方は最後の最後まで我々を試そうとされるの
ですか? 余りにも微風なので弱り目に祟り目でライト・スピンネーカーが3度もフォアー・ステーに絡まる。
多分今夜前線が通過して逆風が吹き出すのだろう。投げたくなる気持ちをじっと堪える。朝の4時からデッキに
立ち尽くしているが20:00時になっても風は吹かない。こんな悪魔的なことを神様がされるとは考えることが
出来ない。土壇場に来てこれは無い!
耐え忍び我慢して強風に身を硬くし、強烈な太陽に、横殴りの雨の中を立ち尽くし、大波に乗り横倒しに会い、
膨大かつ長い苦しい準備の末がこの体とは、こんな手で苦しまされるのは男らしくない!風で勝負をつけさせて
下さい。何を言っても始まらない。残された後の33時間余りに賭けよう!最後まで捨てないぞ!絶対に!!
艇内も苛立ち全員眠れず。これがマストの代償なら安いことで在るかも知れないが、あれとて我々の努力不足で
起こったことでは無いと思う。いやそうと思う我々を神は戒めておられるのかもしれない。もう泣き言は止そう。
勿論眠れない。
・11月7日(金)第26日目。(北緯25:29、東経128:11)・・・ゴール直前で日誌に記録なし。・・・
・11月8日(土)第27日目。・・・ついに到着・・・
昨日の朝6時頃より向い風のやや強い処女風が吹き出す。この時からゴールまで北の風が風力4(風速6~
8メーター)で吹き続けてくれる。昨日の夕方に沖縄の最南端残波岬をかわす。その大分前から航空自衛隊の
プロペラ機が上空を何回か旋回して行く。みんなで手を振る。沖縄の最南端から海洋博の在る本部までは、
珊瑚礁の浅瀬がいっぱい点在する島また島々の間を北に向かって、タック、タック(風上一杯に走りながら
進路をほぼ90度強制的に切り替えること)で間切って行かなければならない。風速10メーターの向かい風の
中を、総員ゴールまでオールハンズ・オン・デッキでワッチをし、操船することに皆の自発で決める。月明かりの中、
手に取れる程のリーフの近くをタックでかわす。当時の沖縄周辺の海図は正確に整備されて無い様に思って
いたから尚更慎重に操船する。この辺りは先行していた何隻かのシングルハンド艇が珊瑚礁に接触した所だ。
海水は月明かりでも分るほど透き通って海底が見える程綺麗なことが分る。みんな一丸になっている!
そうこうしている内に夜が白み始める。待ちに待ったゴールが迫って来る。と見ていると前方から皆の家族を
乗せた高速船がラプソデー・ビバーチェ号を目指して近づいて来るのを驚きと期待で見る。全員両手をいっぱいに
振る。舵をもっている自分は片手を上げる。ずーと立ちっぱなしで皆な殆ど一睡もせず、最後の最後まで頑張って
11月8日07:13分21秒にゴールラインを切る。艇上で歓声が上がる!やったぞ! 皆なの衆!!
それからそれぞれの今日までの思いを胸に込め、ラプソデー・ビバーチェ号はゆっくり慎重にエンジンを掛け、
クラッチを入れスクリューを26日振りに回転させながら、朝早くて未だ人も少ない海洋博会場の桟橋に接岸する。
先に着いて迎えに来てくれている家族から何時も夢見た冷えたビールの差し入れを戴く。何となく照れくさい
思いがこみ上げてくる。レースは終った。
皆も艇も無事でよかった。子供たち、ワイフ、乗り組みの家族、26日目に上陸した足元が揺れてふらつく。
(15)
航海中喉の乾きの連続であった時に思い続けていた、冷えたビールの差し入れを戴く。ウマイが何か陸との
接触がギコチ無くて間が持てない。皆な本当によくやってくれた。長かったけれど済んでしまえば短いものだった。
しかし何かをやったことだけは、確かだったと皆と共に胸が膨らむ。
(終わり)
あとがき
“光陰矢のごとし“と言いますが、来る日も来る日も広大な太平洋の頂点を風だけを頼りに1日でも、1時間でも、
一刻でも早く沖縄にゴールしたいとホノルルからの26日0時間13分21秒を駆け抜けた毎日の24時間は、時に
早く 時に遅い1日でした。正に”光陰ヨットの如し“でした。
それから30年の歳月が流れ、その頃一番若かった紅顔の美青年が50の坂を越え、6名が還暦を、私が古希を
迎え、大変残念なことに、あんなに元気だった大石副艇長が既に鬼籍に記載されました。しかしこのレースに
参加したメンバーから、その後日本のヨット界に貢献されている多くの同輩が生まれたことは、同じ釜の飯を毎日
揺れながら共にしたメンバーには、嬉しく誇らしいことであります。また 諸般の事情でヨットから離れられた諸兄も、
この太平洋横断レースのことは、多分それぞれの一生の心の糧になっておられることと思っています。
この記録は日記などつけない私が、航海日誌のつもりで毎日ヨットの中で書き綴った事実に基づくものに、今回
30年振りに読み返し補稿したものです。
その頃は便利で画期的な発明品であるパソコンもGPSもジブ・ファーラー(ジブをいちいち取り替えなくても、好きな
大きさのジブに展開出来るスグレ物)も未だ発明されていない時代でした。その頃のセーリングは殆ど五感と第六感と
何よりも信頼のメンバーが頼りでした。それだけに当時のメンバーは今回あえて文中では名前を記載しません
でしたが、最高のメンバーであったと信じています。 メンバーの皆さんには此れから先も自愛されながら、
あの広大な青い太平洋の寛容さと澄み切った大空を心に、それぞれご活躍されんことをお祈りしています。
終わりに当たりこのプロジェクトに、ご指導ご支援ご協力を戴きました各界の皆様のことは、決して忘れられません。
参加者を代表して心より感謝の誠を捧げます。ありがとうございました。
(備考)
・航海日誌での毎日の艇の正午位置は、今の様な画期的な発明品のGPSが無かったので、(故)大石副艇長が
毎日正午に天測したものであります。天気の都合で天測が出来ない日は五感プラス六感によるものです。
(参加メンバー名簿 1975年8月ハワイへの回航時点)
艇長: 蔭山陽三 (39歳) 高砂熱学工業㈱
*副艇長 兼ハワイ回航艇長: (故)大石 守 (43歳) 関西国際空港ビルディング㈱
*セーリング・マスター兼事務長: 笹岡耕平 (33歳) 自営業 喫茶パブ「満帆」
*セーリング・マスター兼機関長: 松見 稔 (28歳) 西芝電機㈱
*オペレイター: 桶谷昌作 (38歳) ㈱三晃冷機工業所
*クルー: 小田義秀 (30歳) 東洋シップサプライ㈱
同上 : 千賀 彰 (29歳) 高砂熱学工業㈱
同上 : 鑓 専次 (27歳) 高砂熱学工業㈱
同上 : 冨本 茂 (26歳) 高砂熱学工業㈱
同上 : 高橋保治 (26歳) 高砂熱学工業㈱
*同上 : 門田公正 (24歳) 大沢商会㈱
*同上 : 岡田憲佳 (20歳) 追手門学院大学(在学中)
+ドクター: 今永光明 (33歳) 医師
(上記で *マークはハワイまでの回航と、レース参加者。+マークはハワイまでの回航参加者)
(完)
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