沖縄海洋博協会主催「1975年ハワイー沖縄太平洋横断ヨット・レース」に参加して(前編‥・準備からハワイヘ船出まで)

沖縄海洋博協会主催「1975年ハワイー沖縄太平洋横断ヨット・レース」に参加して(前編‥・準備からハワイヘ船出まで)

1975年(昭和50年)10月5日~11月8日間の航海日誌より

(2005年(平成17年)7月 補稿)

「ラプソデー・ビバーチェ号」 艇長 蔭山陽三

1.はじめに

 昭和45年10月当時 高砂熱学工業㈱大阪支店に勤務していた社員5名と、関西のア

マチュア・ヨットマン8名は「高砂ヨットクラブ」の所属艇「ラプソデー・ビバーチェ号」にて

表記の国際ヨット、レースに参加致しました。

 全航程8,631海里、約16,0 0 0キロメーター、全所要日数1 0 2 日の大航海で

した。(但しレースのみの航程は約8,000㎞、所要日数26日余)

昭和50年8月5日ホームポートの和歌山県大崎港を出航してから11月15日帰港する

まで、凡て自力航海によるものでした。

 レース結果は着順2位、1着のアメリカの64フート大型艇、有名な「SORCERY

号」と修正時間で約40分の遅れでした。

本編はこのレースに向かう迄の記録に基づくお話です。

2.レース参加の動機と準備

 このレースの噂が小生の耳に初めて入って来だのは、1974年(昭和49年)の秋、

世はオイルショックに始まったスタッグフレーションの真最中でした。とても"ヨットどこ

ろではなく会社の大事“と日夜東奔西走を続けていた頃です。勿論我々ヨットをやるも

のにとって、太平洋の大海原をヨットで乗り越えると言うことは、大きな夢であり、しかも

それがホノルルから沖縄までの、わが国最初の国際ヨット・レースであってみればなおの

こと、特に小学校4年生の子供の頃に太平洋戦争の敗戦を体験している小生にとっては、

開戦の場であった真珠湾や唯一米軍に上陸され住民を巻き込んで壊滅的な破壊を受けた沖

縄に、ヨットと言う最も平和的で優美な船で、しかも自分たちの腕で風と天測と言う天体

を頼りに昔の大航海時代の帆船の同じ様に往くことは、堪らない魅力と意義を持つもので

した。

 もしやるとすれば‥・たとえ夢であってもそんなことを考えることは、楽しいことに変わ

りありません。しかし反面このレースがその大きな海面と距離の長さからして、今までレ

ースして来た日本周辺のそれに比べて、スケールが格段に違うと言うことが最初にありま

した。それだけに もしやれるとすれば‥・と、強い願望が起こってくるものです。それは

何事においてもこれからやろうとすることが大きければ大きなほど、あらゆる困難を乗り

越えて打ち勝ちたいと言う男の持つ本能なのでした。

                    (1)

もしやるとすれば‥・拭っても拭ってもそんな思いが起きて来るのですが、先ずは ① ヨ

ットの経験と優れたシーマンシップ、度胸と忍耐力と協調性のある健康な乗り組みメンバ

ー。② 台風の中に突入しても耐えられる丈夫で速いヨット。③ 備品や食料の他を揃え

る為の資金、そして最大の関門 仕事を離れての ④ 長期にわたる休暇の捻出です。(大

海を行く以上危険の可能性は充分にあることですが、万一の場合にも耐えられるべく、可

能なことは準備の対象に致しました。)

この最後の休暇の捻出まで来ると、その厚い壁にぶち当たり思考が停止して”レースは遊

び、今 会社は大変”と自分に言い聞かせて自分自身を納得させる日々が続きました。

 しかしそんな毎日が続くと共に、周囲の経済情勢も次第に落ち着き始め、オイルショッ

クによる石油製品に伴う物不足や物価の狂乱も安定し始めると共に、仕事量も過大になら

ない見透しが出来る様になって来ました。“ひょっとしたら”と言うことが、また頭をかす

めるようになります。いずれにしても可能性を追求し、万に一つでも希望を捨てず、常に

準備をして置くことを心に決めて昭和49年が終わるのでした。

 そんな時に海洋博協会 大浜伸泉会長から正式のレース参加要請書が届きました。四面

を海に囲まれながら、歴史的に診ても決して海洋国家で無いわが国が有史初めて催す「沖縄

国際海洋博覧会」の主旨‥・“海、その望ましい未来“‥・も発表されました。太平洋横断ヨ

ット・レースの記事がチラホラとマス・コミに載り始めてきます。そんな機運のなか、そ

れとなく社内の信頼できる2、3入に、密かにソフトに仮定の話として参加の場合の話を

して、その反応を見てみることにしました。もちろん本気にする人は皆無でした。

 昭和50年1月中半ば 社団法人 日本外洋帆走協会の内海支部恒例の新年の総会が開か

れましたが、そこでの話題は当然のことながら、このとてつもない、しかもわが国が始め

て催す太平洋横断ヨット・レースでした。しかし出席者の皆はその道の者ゆえ、このレース

のスケールが判るし、参加するとすればそれに伴う膨大な準備のことも想像出来るだけに、

積極的に参加の意思表示をする者は誰も居ませんでした。

 私としては例え自分達が参加出来なくてもこのレースは今後の日本のヨット界の為にも

是非とも成功させたいし、関西からも最低1艇は参加させねばならないと強く考えていま

した。勿論このレースの乗組員や長い休暇の取得や資金などを考えると一艇のオーナーだ

けでは荷が重過ぎることは自明であったので、超党派でことに当たり、取りあえず内海支

部の中で、太平洋横断レースに耐航出来るヨットを上位3艇選んで、各々が出場を前提に

努力し、昭和50年3月末日までにその態度を明らかにしようということにしました。そ

してどこが参加しようが、その艇に協力し合うと言うことに決まりました。

当然のことながら最大艇の「高砂ョツトクラブ」の「ラプソデー・ビバーチェ号」が第一

候補に上がってしまいました。

 “名誉なことであるとであると共に、難儀なことでもある“ と言うのが、その時の偽り

の無い実感でした。

                    (2)

ヨットは大自然を相手に、凡て人力で操船する物であるゆえ、前にも述べましたように

その乗組員の選択は1番大事なことです。万一にも我々の「ラプソデー・ビバーチェ号」が

出場するとなれば、ハワイまでの自力回航も含めそのメンバーは社内の選択メンバーと、

社外の有志となることは、当然のことでした。社外は別として社内メンバーの選択は、今

迄共にやって来た仲間でもあり難しいことです。この時点でクラブのメンバーは誰もこの

レースヘの参加の可能性は知らなかったし、小生からも話しませんでした。

そしてその選択の方法として真冬の紀伊水道の海に休日毎に、帆走練習に出掛けることに

し、そこでの様子で選ぶことにしようとしました。真冬の海は北西の季節風が連日吹き荒

れ、気温は昼間の艇内でも2、3℃と言う状態です。そこを30度も傾きながらオイルス

キンに身を包み、大量の海水の飛沫をかぶりながら練習することは、ヨットが好きだけでは

続くものではありません。これを続けると誰が選択されるかと言うことより、誰が残るか

と言うことになりました。

 一方社外の有志の方からも、ボツボツ声がかかり始めました。色々な職業の人達でした

が、共通していることはヨットが好き、海が好きで堪らないことと、わが国初めてのこの

レースに我々と同じように大きな意義を感じておられることでした。なかには会社を辞め

てでも、経営している店をたたんでもと言うほど、強い参加意欲の持ち主も居られました。

 年が明けると共に、経済も益々安定化の方向に向かい始めてきました。ことヨットに関

すること以外は常識的であると自認している小生の考えでは、これはチャンスかも知れな

いと言う気がし始めました。

 参加するとすれば ① 仕事に出来るだけ支障を掛けないこと。 ② それぞれ参加メ

ンバーの客先に迷惑を掛けないこと。③ 社内の人の同意を得ること。 ④ 決して悪い

前例にしないこと。を前提条件に先ず参加予定メンバーに話し同意を得てから、次にそれ

ぞれの担当課長にお願いを始めることにしました。その次に部長、それから上位職へと話

を持ち歩き、輪を大きくして行きました。

 当時の一般的な企業やサラリーマン社会ではこんな話は通じ難くいものであることは、

百も承知していましたが、さすが当時の高砂熟学のトップや大阪支店の人々の反応は非常

に前向きかつ、好意的でした。①絶対に安全であること。 ②有給休暇の範囲内で行くこ

と。③あくまで自費であること。を条件に待望の役員会の許可が3月の末に下りました。

しかし問題は有給休暇の範囲内と言うことでした。 10月12日にホノルル沖をスタート

と言うことになると9月の日本近海の台風を考えれば、少なくとも8月の初めには日本を

離れなければなりません。ハワイまでの回航に1ヶ月余、向こうでの艇の整備や保管等も

あり途中で帰国するのも無理とすればこれで1ヶ月、レースで1ヶ月、沖縄からの本土へ

の回航その他で10日とすると、回航組で約100日、レースだけの参加組でも最低45日

がどうしても必要となります。先ずこのことを社外メンバーに伝え、ハワイまでの回航は、

社外メンバーでお願いすることを了解してもらいました。

                    (3)

 後は社内メンバーの45日の休暇の取得です。幸い参加メンバーは、目々多忙な社員ば

かりだったので前年度迄の有給休暇を取得している者がほとんど居なく、これで20日分

プラス5日をゲットし、残りの20日分は、その年の休暇を当てることに決めました。そ

れでも社内の人の同意を得るためにも、進んで人の仕事を買って出ることを申し合わせま

した。

 これで賽は投げられました! 昭和50年4月8日の夜、高砂熟学大阪支店で下記の参

加者による第1回のミーティングを参加者全員、熱い思いと大きな夢を持って開きました。

 (参加メンバー)

・艇長‥・蔭山陽三(当時39歳、以下同じ)高砂熱学工業㈱大阪支店

*副艇長兼回航組艇長‥・(故)大石 守(43歳)関西国際空港ビルディング㈱

*セーリングマスター兼事務長‥・笹岡耕平(33歳)自営 喫茶パプ「満帆」

*セーリングマスター兼機関長‥・松見 稔(28歳)西芝電機㈱

*オペレーター兼回航組副艇長‥・桶谷昌作(38歳)㈱三晃冷機工業所

*クルー‥・小田義秀(30歳)東洋シップサプライ㈱

・同上 ‥・千賀 彰(29歳)高砂熱学工業㈱ 大阪支店

・同上 ‥・鑓 専治(27歳)高砂熱学工業㈱ 大阪支店

・同上 ‥・冨本 茂(26歳)高砂熱学工業㈱ 大阪支店

・同上 ‥・高橋保治(26歳)高砂熱学工業㈱ 大阪支店

*同上 ‥・門田公正(2 4歳)大沢商会㈱

*同上 ‥・岡田憲佳(20歳)追手門学院大学(在学中)

**同上‥・今永光明(33歳)医師

 (*氏名はレース並びに回航に乗艇、**氏名はハワイまでの回航に乗艇)

これからは予想される膨大な準備と、予期せぬ困難にもめげず一致団結してレースに勝ち、

全員無事で帰国出来ることの作業の始まりです。

 代表オーナー、艇長として小生は、その責任の大きさを考えないわけにはいきません。

長期間にわたり常に傾き動揺する小さなヨットの中で夜も昼もやって行くには、私自身が

全乗組員の凡てを知る必要があります。特に社外の人々に付いては、なおのことです。出

発までの4ヶ月間、練習や準備もかねて出来るだけ多く皆と一緒になる機会をつくりまし

た。毎週1回 夜に梅田で懸案の検討会、土曜と日曜日には和歌山のヨットに練習や整備

に集まることにしました。そこで各人の性格の観察と理解に努めました。色々な問題につ

いては、各人自由な討議を行い最終的に艇長が決めるという方法をとりました。 ドックで

は船底掃除やペンキ塗りなど整備も皆で真っ黒になって汗を流しました。まるで運動部の

学生の様に、小さな蒸し暑いドックの工場の2階の板の上に、皆で雑魚寝したことも

                    (4)

しばしばです。 5月31日には結団式を大崎の旅館 双葉荘で元気よく開き、ハワイのヨ

ットのクラブで披露する阿波踊りの練習も皆で踊りました。

 積み込む品物についても艇を軽くする為と、限られた容積の艇内のことゆえ、スプーン

1本に付いても慎重に検討した上で決定しました。また食料品などに付いても参加メンバ

ーの個人負担を少しでも軽減したい為に会社訪問をして賛助品を頂きに回り、多くの品を

集めさせて頂きましたレ

 しかし5月に入って、想像もしていなかった、今から思うと出発前の最大の難問が出てき

ました。新しく出来た小型船舶に対しての海事法令の発令です。それまでヨットは海に浮

かぶ浮遊物と同じで、何らの法的拘束はありませんでした。我が国で始めて船舶法が誕生

したのは明治32年頃です。その時代にはヨットなる遊びの船は無かったはずです。

ましてやアマチュアが競争やクルージングを目的にした現代のヨットは、昔の帆船に比べ

てもその船型、機能とも全く違ったカテゴリーに入るものです。そのヨットに大型船の測

度(船の容積)を計測する方法と同じ(船長X幅X深さ)を掛け合わせる昔の測度法でトン

数を決め、20トンを超えるヨットには、30万トンの船と同じようにプロの免許を持っ

た船員を乗せる義務を法令化してしまったのです。世界に類を見ない実情に合わない悪法

令の発動です。48フートの「ラプソデー・ビバーチェ号」はその測度法では、20トン

を超えてしまうのです。

 天然資源に乏しく、小さな島国に多くの人が住んでいる我が国が、これからも生き残っ

て行くためには、視点を海外に向け、海を往来して行かねばならないことは中学生でも分

かること、それが為にも国民の皆に海に対する正しい考えを普及していかねばならない官

庁、海運局が、このような解釈しか出来ない現実を見せつけられ“海、その望ましい未来”

はまだまだ先のことに思えてくるのでした。怒りを通り越してただ呆れるばかりでした。

 しかしそんなことも言っていられないので、(社)日本外洋帆走協会を通じて、レースの

主催者である海洋博協会から海運局に特別な配慮を申し入れて貰う様に運動を始めました。

この間何回も管轄の海運局にも足を運びました。関東の方から参加予定の現(社)日本セ

ーリング連盟会長の山崎達光氏の54フート「サンバード V世号」や現東京都知事の石原

慎太郎氏の46フート「コンテッサ VI世号」を始め何艇もの20トンを越える大型艇が、

この難問に嫌気をさし、レース参加を断念していきました。

 私としては少なくとも国際レースの主催者である我が国が、世界のヨット界の物笑いに

ならない様にと、最後の最後まで合法的に出場しようと、諦めずに努力し続けました。こ

れほど世の中のアベコベに、腹が立つより情けなさと空しさを感じたことばありませんで

した。ハワイに向けて回航メンバーを送り出す当日まで、それは辛くて多忙な目々でした。

しかしこれも我が国初めての国際大レースのことと、広大な太平洋の寛大さを見習って心

を鎮めることにしました。

               (5)

3.いざ出帆!

 まだ法令的に色々な事情もあって下津港の海上保安署に気を使い、昭和50年8月5日

午後8時の夜間の出航と決めました。

暗夜の紀伊水道を南に舳先を向けて、大石艇長初め桶谷、笹岡、松見、小田、門田、岡田、

今永の8名の諸兄が乗り組む「ラプソデー・ビバーチェ号」が、母港の大崎港を船出して行

く。

 “ボン・ボワイヤージ!” 見送る私の目頭が熟くなり、ヨットの方からも予期せず鬨[と

き]の声が上がる。さあ!これからが本当の航海の始まりなのだ。何卒無事に太平洋を渡

りハワイに着きます様にと、心の中で祈りを捧げました。

 [付録]

昭和50年8月2日に洲本サントピアマリーナで(社)日本外洋帆走協会内海支部が盛

大に開いて頂いた我々の壮行会で、参加メンバー各人が残したコメントです。

蔭山‥・海の民なら男なら、どうせ一度は憧れた太平洋の荒波で“望ましい未来の海”

とョツトの為の狂想曲(ラプソデー)を快活(ピバーチェ)に奏でてきます。

 (故)大石‥・バカは死ななきや直らない。三半規管が故障していないことを証明して

見せます。

笹岡‥・完走することが上位入賞することだと確信している。チームワーク第一に頑張

りたい。

松見‥・なせばなる。まず実行すること。ファイト・ファイトでファーストホーム!

桶谷‥・蔭山艇長の元に青い海、青い空の中を、白いVIVACEに乗ってスタートを

切る。ただ沖縄を目指して走るのみ。

千賀‥・30年目の初冒険に心をはずましています。これからの人生に何か残れば幸い

です。

小田‥・健全なる身体のもとに本レースに全力投球します。乞う御期待あれ。

富本‥・コメントは帰ってからにします。

高橋‥・町ではめったに顔を見せない裸の自然とお話してきます。

鑓‥・考えれば考えるほど何も出てこないので、何も考ええずにとりあえずやってみよ

う。

門田‥・回航では酒と美食をたのしみ、ハワイではコバルトブルーの海、澄み切った空

の下で?を楽しむ。本番レースではファーストフイニッシュ、3位内入賞をはたす。

岡田‥・スピンがチ切れる程の風が吹き荒れたら速く沖縄に着けるのに。

今永‥・病人が出ないことをひたすら願ってハワイまで走ります。ランドホール出来な

い時は全員麻酔注射です。

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