※この記事は神船大ヨット部会報「深江2003」から転載しました。
14期E 松見 稔
14Eの松見です。
同期は4人で、キャプテン前田(N)、マネージャ徳田(N)、渉外〔傷害〕宍戸(N)、
そしてノーテンキ松見(E)です、そしてヨット部で同期以外で忘れてはいけない人、
ヨットの達人、13Nキャプテン土屋さん[合掌]の名前がここに必要です。
自問自答;なぜヨット部に入ったか? 不明、そこにヨット部があったから、
目指すもの、それは海、商船からヨットヘ
さて、ヨット部での4年間、インカレヘ、インカレヘで練習に明け暮れし、休日はほとんどなかったが、
船乗り気質の仲間たちと海の上で戯れるというようなものが、3K部活をずっと続けられた原動力の
ような気がします。
当時も今もョット部は部員あつめに四苦八苦しているのは同じようですね。
ヨット部ではスナイプ”Bellatorix”号に特にお世話になりました。
商船大のヨットにはセールナンバーとは別に優稚な船名がつけられていたのは船乗りの心意気で
しょうか。
試合の成績はさておき、学生ヨット部での生活から社会人クルーザー生活への連綿としたヨットでの
関わりを振り返ってみます。
1年の夏、クルーザーの経験をする;
夏休み前、なぜかポンドに係留されていたキングフィッシャー(19feet)を物珍しげに見ていたら
土屋さんが誘ってくれた。大阪湾を縦断し、友が島を抜けて淡路島の福良へ、そして鳴門海峡を
みて帰路に、3日程度だったように思う、当時はまだ大鳴門橋はなく、鳴門への連絡船が発着する
福良はにぎやかな町でした。
福良は湾が深く良港です、清爽の桟橋は波がありません。しかし出港するときに湾口から強烈な
向かい風が吹いて20~30度くらいヒール、ガンネルを波があらい今にもキャビンに水が
入りそうになったがそれでもセールを引き込まないと福良湾から外へ出られない、「土屋さん、
水がはいったらどうなりますか?」と訪ねたら、”沈む!”と一言、ヒールを起こすためにディンギー並に
必死でバラストになっていました。
土屋さんの巧みなチラーさばきとレースの時と同じようなタッキングで無事湾外に出たが、そこは
紀伊水道からの大きなうねりと鳴門の波で第2の苦しみが持っていた、デッキ上でびしょぬれに
なりながらバラストになって大阪湾にむかう。
当時、堀江さんの太平洋横断や鹿島さんの大西洋横断等でクルーザーヨットが脚光を浴び
初めていた。
クルーザーは沈まない、ディンギィより楽ちん雰囲気があったが、それは嘘だと実感した次第。
土屋さんと先輩2名の4入で、七輪積んで小さな船外様しかもたないミニクルーザーでの
初航海でした
>>> ポンドに帰り着いた夜、船乗りの卵として航海を終えた充実感と満足感で土屋さんと
三宮へしけ込んだ!!
土屋さんは、卒業後、川汽へ入られましたね、持ち前の切れと行動力でスーパー船長として
将来を嘱望されていたと聞いています。
知多半島の実家へ遊びにこいよと言われていましたが残念ながらその機会も無くなりました。
2年の夏、二回目のクルーザーとレース体験;
今度は本格的なクルージングとレース、3E蔭山さんの勤務する会社のクルーザー「STAR
DUST」(33ftケッチ、設計:横山昇、建造:姫路の奥村ボート、関東以西では最大のクルーザー
だった)で、夏の大ヨットレース鳥羽パールレースへ出場するために大阪から鳥羽への回航でした。
宍戸と2人で回航の手伝いに出かけた、初めての太平洋ロングクルーズです。
和歌山の下津から南下していくと、太平洋からの大きなうねりを体に受けてだんだん気分が
悪くなってくるが我慢我慢、33ftとはいえ、キャビンの中はせまく、船酔い気味ではとうてい中には
居られず、ずっとデッキでビール片手にワッチ。
夜航海になり行き交う同航船、反航船の航海灯を確認しながら、本船の当直の気分を察しなから
南進していきます 一一 本船が近づくとセールに懐中電灯で光をあて、我がヨットが相手から
認識できるよう常に注意を払う(本船乗りの方、ご留意下さい)。
大量に積み込んであるビールは飲み放題一一学生の身分でただ酒はありがたい<感謝、感謝>。
白浜沖あたりを夜半に通過し、寝ずにがんばって潮岬を回って串本へ入港、波止場にあがって一休み、
波止場から続く路の向こうに国鉄の駅舎が見えます。
われわれが長時間かけてやっとの思いで来たところに、天王寺発11時過ぎの夜行列車で釣り客が
降りてくるのをみてこの落差はなんだ、と違和感を覚えたものです。
次の日、太平洋の揺れにもなれ、船酔いを完全に克服、ルンルン気分で紀伊半島に沿って那智勝浦、
有名な洞窟の近くを見て熊野灘を北上、三木崎を目指す、三木崎からナサ崎を回って九木港へ、
湾内の九鬼神社まえの石垣の岸壁へともアンカーでもやいをとる。
ここは、町の人も素朴でやさしくヨットにとって泊まり心地のよい漁港です、「STARDUST」では、
距離のながい熊野灘をクルージングするときはいつもこの港に入りました。
夜明けに九鬼の漁師たちが漁を終えてどんどん戻ってきます、熊野灘の漁船は乾舷がわりと高く、
舳先がとがっていていかにも太海原むけという感じの船形でした、いままで瀬戸内海の漁船しか
みたことのない私には漁船というよりもキャッチャーボートというイメージに写ったものです。
海象地域と漁法、用途によって船はすべてその形が最適になっていること(これは松木先生の
船舶工学?)を現場で習得しました。
漁船が船着き場でにぎやかになったのが一段落したところで、これもなぜか船内にいつも数本ある
”口-ヤル”がオールド”を片手に水揚げ場へ行きます(会社員のメンバーの歳暮と中元の品を
かき集めていたそうです)。
そして、気の良さそうな漁師に声を掛けて、揚げてきた魚を数本、持参したウイスキーと交換します。
朝食は生きの良い刺身、あらをみそ汁に煮込んで満腹になったところで、私の出番、氷と食料を
買いだしに町まで行きます、どこの港へ寄ってもこの仕事が必須で我々の担当です、氷が重たい、
船で冷えたビールを飲むために歯を食いしばって運びます、まだヨット技術ではないところでしか
活躍の揚がありません。
九鬼から大王崎をまわってめざす鳥羽へまる1日、鳥羽国際ホテル横のたくさん並ぶ旅館の
近くの桟橋にもやいをとります、既に関東からきた数隻のレース参加艇が停泊しています。
太陽と潮風を一杯うけ、行くところ行くところが初めての新鮮なクルージングでした。
ここ鳥羽で、回航してきた先輩たちは来週のレースまであと1週間、会社に戻っていきます、
我々学生は、神戸まで帰る電車賃がないのでヨット生活をします。
ヨットにいればとにかく寝るところと食料はあるので、整備をしながらレースをまちます。
ヨット部で練習しているときはいつもよれよれでお腹をすかしていたが、クルーザーに乗った
後は日焼けも一杯し、体は一段と太って帰るようになったものです。
その後も数回このレースには出場しました、レース結果は不問です。
そして、三隻目のクルーザー”Rhapsody vivace” でハワイヘ;
60年台後半より3E蔭山さんを主体に会社仲間たちで大型ヨットを作る計画が進んでいました。
そして1972年春、和歌山下津の大和造船でついに日本で最大級のレーサークルーザー
”Rhapsody Vivace”が進水しました。
全長48ft、今は無き武市・村本設計のスチール製です。
この造船所では三隻目のスチールヨットでした、この大きさでFRPはちょっと不安があり、
アルミ製ヨットはまだ技術が成熟していなかったように思います。
船体は進水したけれどデッキの蟻装はなかなか進みません、なぜってマストはイギリスALSPAR社
から、セールはオーストラリアHOODからの輸入で、納期がいい加減なのは昔も今もかわりません。
当時、私は姫路の舶用電気機器メーカーに就職していましたが、毎週土日は下津がよいで安月給が
電車賃ですっ飛んでいきます。
(同時にその会社で同好の志を募りY15とクルーザーBW21、リンフオース工業製、設計は
Vivaceと同じ武市俊一を購入し仲間たちと播磨灘中心に活動する役も担っていたので、そちらの
資金繰りもあり、いつも財布はからでした)。
それでもこの大型ヨットを動かすことに限りなく情熱をそそぎ込みました、蔭山艇長のアイデアと
統率力、我々クルーの行動力で、はじめはこんな大きなョットが動かせるのかと疑心暗鬼でしたが、
どんどん船が走り出しました、ここでは商船大の四年間のセーリングの経験と、大学の本科の
”教養”がものをいったようです。
こんな大きなョットでも、mm単位のセールのトリム、ヒールアングルとセールの調整、ラダーの
リアクションヘの注意、そして巨大なスピンネーカーの展開とジャイビング技術までディンギィー並
以上の繊細さで微調整しながら走ることを覚え実践したのです。
それを可能にした大きな要素は計器と組織です、イギリス製の風向風速計と国産電磁式スピード
メーターが搭載され、セーリングの一挙一動が数値になって出てきたのです。
「STARDUST」ではスピードメータを持っていなかったので、船速を測るときは舳先からものを
投げ落として船尾までの時間を計るという古典的なことをしていました。
もちろん沿岸航法ではチャートに線を入れて数値は出しますがセーリングの面からは考えれば
次元が違います。
そしてスキッパーには的確な判断力、統率力と船内の役割分担への完全な管理、クルーは正しい
セーリング技術と体力と忍耐力が求められたのです。
機関科としては、エンジンの分解整備、スターンチューブのパッキン調整や取水口のチェックから
タンクの清掃、予備品確保とこれまた本船並の仕事をこなします(蔭山艇長兼機関長と私5等
機関士が担当でした)。
ョットの世界も新しい時代がどんどん進んできて、いままでの経験と勘だけの船長さんクルーザー
乗りだけではもはやレースはついていけません。
蔭山さんと我々若いクルーによるチームワークでぐんぐん熱くなっていきました。
73年、「STARDUST」で何度も出場した鳥羽パールレース<全国レベルヨットレースの檜舞台>
へのデビューです。
スタートから乗組みが一丸となり100㎡超の大きなトラ縞スピンで圧倒的なスピードを保持すべく、
レース中はずっとオールハンで150マイルを約20時間(当時では最短記録)で走りきり諸磯神ヘ
ファーストフィニッシュしたのです。
しかし、新興関西勢に対してのいろいろなものがあり”幻のファーストフィニッシュ”となり涙を
のみました。 ヨットの世界と実社会のいろいろな力の輻輳した現状をかいま見ました。
ともあれ、我々全員サラリーマンでいろいろな制約がある中、関西のョットレースで次第に
実力を上げていきます。
目標は75年の沖縄海洋博の「ハワイー沖縄レース」です。
資金計画から航海計画、船の整備等々入念な計画のもと着々と実行に移されます。
その間、小型船舶の試験まで入ってしまいました、ちょうど新たな免許制度が施行されて、ヨットに
乗るのに一級小型船舶操縦士なるものが必要になったのです。
ヨット乗りは海事従事者ではないとのことで免許をとることになり、蔭山さんと二人で、一次試験、
二次試験と受けていきます。
特に二次試験は和歌山の和歌浦から紀伊水道へ20トンの試験用船舶に乗船しての実地
試験です。
試験項目は沿岸航法、レーダー、ロランC、天測まであります、何で天測のテストがここで
できるのか摩訶不思議な試験でした。 我々は機関科卒で蔭山さんは本船乗り実績ありと
いってもこれではたまりません。 おかげで良い勉強になりました。
さて、レースですが、まずハワイヘ自力回航するべくVivaceグループから私1人と関西の
ヨット仲間計8名で回航しました。
その中には小田元学長の息子の義秀君(太平洋横断シングルハンドョットレースに参加した
経験あり)も入っていました。
75年8月5日、蔭山さんたち後組みグループが見守る中、夜半に下津を出港、一路ハワイ、
ホノルルを目指します。
そして、”商船大機関科卒”の私が六分儀で白チャートに位置を入れながら、初めての大洋
航海を乗り切り8月31日無事ホノルル神にアンカーしたのです。
この航海は、正直いって面白かったです、年齢も職業も経歴もちがう人たちが同居する船内
模様と毎日毎日のヨット航海の百変化、これも人生勉強になりました。
ここから先、ハワイー沖縄ヨットレースについてはMBSのドキュメンクリー番組に取上げられて
いますので詳しくは書きませんが、太平洋を小さな船で渡るという行為は何とも形容しがたい
恐怖感と夢と今日一日の充実感を感じさせることでした。
そして今、我が”Rhapsody Vivace” はゆっくりセーリングで次の時代へと流しているよう感じます。
このような経験をふまえ、私にとって商船大とヨット部、ヨットとヨット仲間の出会いがこの社会
生活の中で大きな力になったことを実感し感謝しています。
以上
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